日本を代表する作曲家 「船村 徹」
演歌の世界で、並ぶものがない大御所の作曲家。
昭和24年、東洋音楽学校(現東京音楽大学)ではピアノ科に学ぶ。同校の声楽科に在籍していた高野公男と知り合い、二人で作品作りを精力的に始める。
昭和20年代、まだ駐留米軍が数多くいた時代。船村は、生活には困窮し朝食は向こうが透けて見えるトースト一枚。あとは水を飲んで飢えをしのいだ。「ピアノを弾くことはエネルギーがいりますから」とても腹が減って、辛かったとも船村は語っている。
そこで知り合った同級生・高野公男の弁当からにぎりめしを取って食べてしまったことをきっかけに仲良くなり、一生の「友人」としての交際がはじまった。その高野が、「焼け野原で働く大衆のための歌を作れ」と言い出して、船村は演歌を志すようになった。
船村が栃木の出身、高野が茨城。ともに地方出身で、意気投合。ともに演歌を自分の仕事と思い定め、二人揃って貧乏暮らし。キャバレーのボーイのアルバイトでは、客の残したビールを洗面器に集め、二人でそれを飲んだこともあったという。
この当時、東洋音楽学校の一級上に黒柳徹子がいた。黒柳は声楽科で、そのような上級生の伴奏を勤めさせられることがあり、そのことを「指導」と呼び、船村も黒柳からたびたびそのような「指導」を受けたことがあるという。
昭和30年、キングレコードから春日八郎のデビュー作として「別れの一本杉」が発売される。
昭和31年、コロムビアレコードから招かれて、高野公男とともに専属となる。そのとき高野26歳、船村24歳。昭和31年8月、コロムビア入社第1作「早く帰ってコ」を発売。その翌月、高野は26歳で結核のため亡くなってしまう。
昭和36年、村田英雄による「王将」を発売。戦後初のミリオンセラーとなる。
昭和53年、22年在籍したコロムビアを退社、フリーの作曲家として活動を始める。同時に、「二代目・船村徹」として、歌作りの原点に立ち返るとして、演歌巡礼の旅を発想し、全国を歌いながら回ることになる。小さな街や刑務所で慰問し、法務大臣より感謝状を送られる。
これまでに世に送り出した作品は約5500曲。弟子の北島三郎によれば「職人の名人芸」という。
作詩家とのつきあいは、西條八十、野村俊夫、石本美由起、丘灯至夫、西沢爽といった、いまでは超ベテランと呼ばれる方々から、なかにし礼、吉岡治、阿久悠に繋がる幅の広さだ。「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」「あの娘が泣いてる波止場」「矢切の渡し」「おんなの宿」「王将」「新宿情話」など、多くの人たちが、折りにふれて口ずさむ歌の数は、圧倒的に多い。
平成29年2月6日に84歳で逝去後も、彼の作品が日本人の心を打ち、外国の人々の心にも通じるのは、彼が日本の歌、つまりは日本のソウルミュージックの稀有の書き手であり、作品に「祈る」心の熱さが託されているせいだろう。
(https://columbia.jp/artist-info/funamura/prof.htmlから引用、一部改変)
船村 徹の功績を後世へ バーチャル船村徹記念館
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船村徹氏の想いが日本、そして世界へ届きますように。
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